今や川越のシンボルのようになっている時の鐘。その奥にある薬師神社の参道わきに、「川越小唄」(西条八十作詞、町田嘉章作曲)の歌碑が建っています。

 まだ著作権が消滅していないので、ここに歌詞を掲載することはできませんが、歌詞に出てくる「多賀町」は旧町名で、時の鐘のある幸町ほかの町名に変わり、現在は使われていません。

 歌碑が建てられたのは昭和45(1970)年ですが、「川越小唄」が作られたのは昭和5(1930)年のこと。

 西条八十著『女妖記』「登山電車の女」(中央公論社、昭和35年;中公文庫)は、「川越小唄」に少しふれています。

 『女妖記』は、西条が交流した様々な女性との思い出を書いた本。「登山電車の女」に登場する女性は、西条と知り合った直後に急死。西条は二度、喜多院にある彼女のお墓を訪ねています。

 一度目は亡くなったばかりの時。二度目は「それから、二、三年後、ぼくは偶然、その土地から頼まれて、川越()(うた)をつくることになった。作曲は(まち)()()(しょう)さんだった。ぼくは昼間、芸者達の稽古の間をこっそりぬけだして、車を走らせ、独りで信子の(はか)(まい)りに行った。」けれど、もう墓を見つけるはできませんでした。

 信子の生家は神楽坂の待合(客が芸妓を呼んで遊興する茶屋)「一力」。本多横丁のほとり、細い小路の奥にある待合「幸本」の建物の一部が、この「一力」の跡を占めていた、と西条は記しています。

 2022年の現在、西条が待合「幸本」があると書いた場所には、料亭「神楽坂 幸本」が。

 西条八十は「川越小唄」の作詞をしながら、信子さんのことを思い出していたのでしょうか?