蔵造り一番街の裏通りに古いお屋敷があります。以前はたしか休日に一般開放されていたはずです。

当時、門前に掲げられていた案内板には、江戸時代は熊野系の修験道場、明治に入ると料亭、さらに神道天理教会となり、やがて天理教団から離脱し独立した、という主旨のことが書かれていました。あの森鴎外が訪れたとも。

玄関に飾られた船津蘭山作の「松鶴図杉戸」も、そうした格式を雄弁に物語っていました。船津蘭山(1808-73)は川越藩松平大和守家の御用絵師で、蘭山記念美術館が蔵造り一番街の表通り、札の辻の少し手前にあります。

これだけでも大変なものなのですが、このお屋敷はさらに戦時中、重要な歴史上の出来事と関係してきます。

鳥居英晴著『国策通信社『同盟』の興亡--通信記者と戦争』(花伝社、2014年)によれば、太平洋戦争末期、同盟通信社の川越分室が川越工業学校(1944年当時、廓町二丁目にあった学校。道を挟んで、隣は川越城本丸御殿でした)に設置され、そこで働く日系二世のタイピストたちは天理教川越分教会を宿舎としたのだそうです。

「二〇一〇年一月一四日、わたしはそこを訪れた。江戸時代は修験道場として使われていたというその建物は、一八九三年の川越大火の際も被害を免れた。同盟の女性たちが使っていたのは、渡り廊下でつながった五〇畳の道場だった。」(前掲書、665ページ)

鳥居は「日本の運命を決めたポツダム宣言、トルーマン大統領の原爆投下声明、ソ連の対日宣戦布告は同盟川越分室でキャッチされ、政府に伝えられた。」とも記しています(前掲書、657ページ)。きっとタイピストの女性の誰かが、傍受したそれらの情報をタイプしたのでしょう。厳重な情報統制下に細心の注意を払って。

2022年現在、近くを通ると、お屋敷の窓や外壁が沢山の蔦草に覆われているのが見えます。貴重な歴史を秘めたお屋敷が、今後も末永く保存・管理されていくことを願ってやみません。