山本嘉次郎(1902-74)という映画監督がいました。
 有名な作品に『馬』(1941年公開)、『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年公開)などがあります。『馬』の助監督はあの黒澤明が務めました。
 この監督に『日本三大洋食考』(昭文社出版部、昭和48年)という著書があります。
 装釘者は、グラフィック・デザイナーでもあった俳優の伊丹十三。
 この本の「幻の味」の部に、「小江戸なりけり」と題した川越の「旨いもの」に関する文章が収められています。
 最初に雑誌に発表されたのは、今から50年前の1972年。古いことは古いのですが、食通としても有名だった映画監督が、川越の「旨いもの」を詳しく紹介している点で貴重です。
 そこで取り上げられている店のなかには、現在、営業していない店もあるかもしれません。しかし、「幻の味」に食欲をそそられるのも一興と考えて、紹介してみます。

■うどん、おでん、うなぎ、だんご
 山本監督は狭山の新茶を買うために川越に行っていました。
 川越の中心部にあった鶴屋という大きな茶問屋で、「狭山翠(さやまみどり)」という銘柄を頒けてもらっていたのです。
 しかし、川越に行くもう一つの理由は、「旨いもの」があるから。
 そこで、次のような店が紹介されます。
・通称「縄のれん」:「ここには油揚の入ったウドンしかない。キツネウドンではない。いかにも関東らしく素ッ気もないが、真のウドンが味える。」(『日本三大洋食考』218ページ)
・成田不動別院の堂の裏の茶店:「食うものといえば、トコロ天とコンニャクの味噌おでんである。肩の張った大ぶりの徳利で地酒を飲みながら石亀を見ていると、昭和だか明治だか分らなくなってしまう。」(同前)
・鰻屋の小川松:「注文を承けてから割(さ)きだすので、どうしても一時間は待たせる。キモ焼やらタニシとネギのぬたなどでチビチビやっていると、ピンと引締まった中串が出てくる。近くの野川か沼の産で、適当に脂が乗っているくせに、味が軽い。」(同書、219ページ)
・団子の中田屋:「川越で一番うまいものといえば、ここの団子であろう。餡はだだ甘くない。適当な塩気があって、明治の東京の味である。
 アンコもいいが、さらにうまいのは、醤油の焼団子である。ちかごろ、ほんとうの醤油の香りに接したのは、ここだけである。醤油は焦げたときに正体をあらわす。」(同書、220ページ)
 この中田屋の項は、次の一文で結ばれています。
「お団子を焼いているお婆さんの指先きは、太く火ぶくれしていて、背中も焼台に吸いつかれたように曲がっている。一串二十円は、まことに貴重なのである。」(同前)

 ここまで読んでくださったかたは、すでにお気づきかもしれませんが、山本監督はお店に配慮してか、店名を微妙に変えて記しているように思えます。
 違っているかもしれませんが、以下の店はそれぞれ、
・茶問屋 鶴屋 → 亀屋山崎茶店
・鰻屋の小川松 → 小川菊
・団子の中田屋 → 鐘撞堂下 田中屋
ではないでしょうか。
 「縄のれん」と呼ばれているうどん屋さんは、手打ちうどん むぎなわ 今成店?
 成田不動別院の堂の裏の茶店は未発見。本堂の右手に亀のいる池はありますが、現在、そのあたりに茶店は見あたりません。
 しかし、上記の3軒の店(亀屋山崎茶店、小川菊、鐘撞堂下 田中屋)は、書かれてから半世紀を経た今も健在。「幻の味」ではありません。行けば、山本監督が舌鼓を打った味に出会えるはず。
 一方、「小江戸なりけり」の後半には、本当の「幻の味」も登場します。
 越辺川(おっぺがわ)の沢蟹を臼で潰し、出たエキスを山芋でつなぎ、田芹とともに味噌で仕立てた汁物など。
 美味しそうですよ。