◆パリの住民の日記

 学生時代に、ヨーロッパ中世史を専門とする歴史学者 堀越孝一教授(1933-2018)の講義を聴講していました。

 講義は、本館から森の中に突き出したような木造校舎の、たしか3階で行われました。縦長の教室は奥の教壇に向かって両側に窓が並び、秋になると窓から見える木々の紅葉が見事でした。講義を聴きながら、その美しさに見とれたものです。

 当時、堀越教授は、オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガの大著『中世の秋』の日本語訳者として著名な存在でした。しかし、最初にその名が世に知られるようになったのは、15世紀のパリの住民の日記をめぐるフランス文学者 渡辺一夫(1901-75)との論争でした。

たまたま教授の研究室に行く機会があった折に、ちらりとその話題にふれると、教授は「いや、僕は渡辺先生が好きなんですよ」とおっしゃられ、本棚には当時刊行中の『増補版渡辺一夫著作集』が並んでいました。渡辺一夫は、16世紀フランスの作家ラブレーの、多義性に富み、言葉あそびがふんだんに盛り込まれた『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』(全5巻)を訳した人。

 実は、のちに堀越教授の著書『わがヴィヨン』(小沢書店、1995年)を読んで知ることになるのですが、二人の論争にはたいへん複雑な経緯があったのです。

 1956年に東京大学文学部史学科を卒業した堀越孝一は、フランス文学部の大学院を受験しました。

「放浪学生は歴史から文学への転向を考えた。渡辺一夫に師事したいと願った。」1「若者のわたしは渡辺一夫につきたかった。(改行)若者は渡辺につきたかった!」2

 しかし、その願いはかなわず、彼は4年後の1960年に史学科の大学院に入学します。でも、渡辺一夫への思いは続き、それがパリの住民の日記の渡辺訳への批判につながります。きっと堀越孝一は渡辺一夫と「対話」をしたかったのです。しかし、32歳年の違う歴史家とフランス文学者は、ここでもすれ違います。

 堀越孝一は書きます。「後年、渡辺一夫が少年〔引用者注、堀越自身〕に向かって、あなたは歴史です、わたしは文学ですと言い放った、そのものいいようを思わせた。」3「それら注記を読めば、言葉の端々に「あなたは歴史です。わたしは文学です」と響いて聞こえる。生の声で、周囲にその感想を漏らされたとも聞いている。」4

 そして、「堀越君がいうようにするには、日記を全部訳せばいいんですよとも渡辺一夫は言い放ったと聞いた」5堀越孝一は、1985年にTBSブリタニカから『日記のなかのパリ――パンと葡萄酒の中世』を、2013年から19年にかけて八坂書房から『パリの住人の日記』(全3巻。著者逝去のため、日記全体の4分の1が未訳のまま残される)を著します。

 憧れの教授と日記の訳をめぐってでも「対話」をしたい、という切なる願いから始まった凄絶なエピソード。ただ、ここで見落としてはならないのは、歴史資料として重要であっても、読んで面白いとは考えにくい日記に、二人の学者が魅了されたという事実です。

 その日記は15世紀のパリの住民が書いたものでしたが、日本の場合はどうでしょう。日本では紀貫之の『土佐日記』をはじめ、昔から多くの日記が書かれています。でも、貴族や武士ではなく、農民、漁師、商人などが書いた古い時代の日記はあるのでしょうか? そして、それは学者以外の一般の人が読んで楽しいものなのでしょうか? かつて堀越教授に不用意な質問を投げかけた私は、ずっと気になっていました。

 ところがあったのです。日記ではありませんが、17世紀の川越の商人によって書かれた覚書が。

◆川越の商人の覚書

 覚書を書いたのは、榎本弥左衛門(1625〔寛永2〕-86〔貞享3〕)。川越で塩・米を扱う商人でした。

 覚書は『榎本弥左衛門覚書――近世初期商人の記録』と題され、大野端男の校注で、東洋文庫695に収録されています(平凡社、2001年)。

 「東洋文庫」はアジア諸地域の代表的な古典などを収めた平凡社が誇るシリーズで、そこに入っているというだけで、この覚書の格の高さ、資料としての貴重さが分かります。

 覚書は、「三子より之覚」と「万之覚」の2冊に分かれ、前者は1680(延宝8)年に記述、1684(貞享元)年まで書き足し、後者は1653(承応2)年に半分余りを記述、1660(万治3)年頃まで書き足しています。

「近世町人の記録として最も早期に成立し、また記述内容の優れたものとして、資料的価値は大きいものといえよう。」と前掲書の「はじめに」にあります6

弥左衛門が生きたのは江戸初期。徳川家光が将軍の時代に生まれ、徳川家綱を経て、徳川綱吉が将軍の時代に没しました。

彼が生まれた1625年はまだ大阪夏の陣から10年しか経っておらず、12歳の時には島原の乱(1637〔寛永14〕年)が、26歳の時には由比正雪の乱(1651〔慶安4〕年)、さらに32歳の時には江戸が大火に見舞われる(江戸明暦の大火。1657〔明暦3〕年)といった事件・災害が起きました。彼は1638〔寛永15〕年の川越大火も経験しています。

そんな弥左衛門の覚書ですから、興味深い記述が沢山あります。そのいくつかを抜き出してみましょう。

・男伊達

 若い頃の弥左衛門は非常な喧嘩好きでした。相手と髪の毛をむしったり、むしられたりしているうちはまだよかったのですが、14歳の時には「川越町一番ノ男だて」7石川太郎衛門と、15歳の時には小窪権十郎と、刀を取っての争いになります。喧嘩は勝っても負けても後始末が大変。太郎衛門の場合は、幸い向こうから詫びを入れてきましたが、刀で五寸も額を切られた権十郎のほうは、長く弥左衛門をつけねらいます。この権十郎、別の喧嘩では相手を殺してしまったというから恐ろしい。彼が病死するまで、弥左衛門は枕を高くして眠れませんでした。では、そんな恐ろしいことがあったのですから、喧嘩はもうやめたかと思うと、さにあらず。弥左衛門、20歳の時も大きな喧嘩をしています。嗚呼。

 さて、ここに出てくる「男ダテ」(男伊達、男達)という言葉を辞書で引くと、多くの辞書が用例を井原西鶴『好色一代男』(1682〔天和2〕年)から採っています。

 同書巻二「女おもはくの外」には、「小鹽山の名木も。落花狼藉。今一しほと惜しまるゝけんぼうといふ男達。其比は捕手居合はやりて。世の風俗も糸鬢にして。くりさけ。二すぢ懸の鬠。上髭のこして。袖下九寸にたらず。染分の組帯。せかいらげの長脇差。爰ぞとおもふ人大形は是。」8とあります。

 文中の「けんぼう」とは吉岡兼房をさし、あの宮本武蔵(1584〔天正12〕?-1645〔正保2〕)と試合をしたとされる剣術家 吉岡一門の当主。

注目すべきは「其比は捕手居合はやりて。」の箇所。弥左衛門の20歳の時の喧嘩についての記述の中にも「其時分はへいほう・とりでをならい申候(に)付」9という似た言葉が出てくるのです。彼が当時の流行に乗っていたことが分かります。

 ちなみに、町奴の頭 幡随院長兵衛と旗本奴の頭 水野十郎左衛門が争い、長兵衛が殺害されるという事件が起こったのが、1650(慶安3)年か1657(明暦3)のこと。前者だとすると、弥左衛門が二十歳で喧嘩をした5年後ということになります。

・三味線・浄瑠璃・小唄

 弥左衛門は自分の子どもへの教訓として、「一、しやみせんをすく人あやうし。じやうるり・こうたにのせ引慰故也。じやうるりは偽り多く、人々おもしろがるやうニ作り、ふしを付けかたる。はやりうたは、道理うすきものニて、悪事・たわ事多し。是ニふしをつけうたい候を、しやみせんニのせ、おもしろがり候心ニては、一生之内、真実之道理を存ずる人まれ成べし。はやく身上にさわりいでき可申は、しやみせんすく人可成と存候事。」10と綴っています。

 これは、三味線音楽、はやりうたに対する古い時代の町人の感想として、とても貴重なものです。上記の「じやうるり」は、竹本義太夫の義太夫節が成立する(1684(貞享8)年)以前の、こんにち「古浄瑠璃」と呼ばれる語りもの。

 ただ、ここで注意しなければいけないのは、本当はこれらの芸能が好きなのに、子への教訓のために、あえて否定的な見解を述べている可能性はないか、という点です。

 でも、どうやら、それはなさそうです。『榎本弥左衛門覚書』の解説に次のように書かれているからです。

 「彼は贅沢を好まず、分限相応に生活し、商売一途に生きた。若い頃は意地が強く、喧嘩もしたが、道徳を守り、妻以外と交わりをもたなかった。遊廓で遊んだという形跡は全くない。」11

・由比正雪

 由比正雪の乱についての重要な記述があります。

 「一、慶安四卯年七月廿二日之比、神田吹田町に由比正雪と申て、物しりぐんほうしや成と申候が、皆々らうにん衆を催し候て、駿河久野の御城へ取こみ、金を取、合戦をいたし可申候とたくみ候て、七月廿二日ニ江戸を立出、するがへのぼり申候故、弓屋藤四郎と、又伊豆守様御内奥村権之丞と、両方より御そにんいたし被申候故、早々駿河へうつてむき申候ニ付て、ふちうの町七間町と云所にて、正雪組、正雪ともニ八人腹切はて候。扨江戸に有ける忠弥とられ、北ノ丸様御内河原十郎兵衛とられ、其外皆とられ、とりのこされははらをきり候。(中略)是等がたくみには、「江戸町中へ一時に廿所へも火お付、御年寄衆出候は皆ころし可申候。又するかへも火を付、何方もやき可申候」とたくみ申候が、早あらはれ候て、所々の大成うかびにて候。」12

 さらに、弥左衛門は正雪が切腹した時の遺書も書き写しています12

事件が起こったのが1651(慶安4)年。事件について弥左衛門が書き記したのが1653(承応2)年から1660(万治3)年頃までのどこかですから、事件後2~9年以内の早い記録ということになります。

さきの「男伊達の流行」も、この「正雪の企み」も、戦いにあけくれた戦国の世が完全に終わったことを間接的に告げています。

・川越まつり

 「川越まつり(川越氷川祭)」の始まりについて、弥左衛門は次のように記しています。

 「一、河越町氷川明神にまつり初りしは、慶安四卯九月廿五日に、まつり渡り初り申候。此おこりは、此年、大袋新田・おくとみ本村、田畠大にあたり申候故、おくとみにてもおとりをいたし候て、松平伊豆守様御家老和田理兵衛様、其外御年寄衆・代官衆よび候て、御見物させ申候。其後、御城三ノ丸にて知行ノわり付を被成申候時、「今迄、川越程の所に、何のまつり事なき事いたづらごと」とて、あやつりか、さゝらか、何ぞ仕候はづが引かへて、九月十八、九日より俄にまつりに成、したく仕候て、廿五日ニわたり申候。是がはじめ也。是は取あへず仕候ニ仍、九月廿五日也。其後は九月十五日に極り申候。」13

これは「川越まつり」について書かれた最も古い記録のようです14。また、日本各地には多くの祭りがありますが、祭りの関係者自身による祭りの始まりの記録として、弥左衛門の覚書は特別な価値を有しています。

「九月十五日に極り申候。」とあるように、「川越まつり」は9月に行われていました。それが10月になったのは、明治期から15。現在は10月14日と15日に開催されています。

なお、「川越まつり」の起源は、松平伊豆守信綱が氷川神社に神輿等を寄進し、神輿の巡行が開始された1648(慶安元)年とされ、藩命で川越氷川祭礼が実施されたのが1651(慶安4)年ということのようです16

 以上、弥左衛門の覚書から興味深い箇所を紹介してみました。覚書を通じて、17世紀の江戸時代へ時間旅行をする楽しさが少しは伝わったでしょうか? 江戸時代初期に書かれた文章なので、多少判読には苦労しますが、西鶴の『好色一代男』のような文学作品に比べれば、はるかに読みやすく書かれています。ここに紹介した以外にも、面白い箇所が沢山あるので、興味がわいたら読んでみてください。

 そして、前言に反するようですが、面白い箇所だけに注目するのではなく、覚書全体の書きぶりと対照しながら読むと、弥左衛門の真意が見えてくることも申し添えておきます。

 さきにふれた15世紀の日記をめぐる堀越・渡辺論争の教訓はそこにあります。渡辺一夫に続き、ラブレーの『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』を訳した宮下志朗は、別の16世紀のノルマンディの田舎貴族の日記について、次のように述べています。

 「こうした日記の一部を主観的に抜き出して論じる行為は、日記の全体像を歪めてしまう危険がある。家事日記を扱う場合、特筆すべき事柄だけを問題にするのではなく、地の模様に関しても十分な考察を払う必要がある。」17

◆そして20世紀に戻れば

 榎本弥左衛門の生家は川越本町(現在の元町1丁目)にありました。川越一番街から続く札の辻と呼ばれる十字路(中央に高札が立てられた)の東側にあたります。

 時代を17世紀から一気に20世紀まで下ると、彼の生家近くの細い通りは弁天横丁(芸者横丁)と呼ばれるようになります。置屋が軒を連ね、お座敷がかかると、芸者衆が「山屋」や「吉寅」などの料亭に出かけていきました。やがて、横丁には芸者さん経営の「若太郎」(後述する「麻利弁天長屋」の一角にあった。そのあとにできたのが、染色作家のギャラリー兼工房「ギャラリーなんとうり」)、「河」といった飲食店も開店します。

 しかし、それも今は昔。閉店したそれらの店に代わり、それらの店が入っていた3軒の長屋(麻利弁天長屋、喜多町弁天長屋、元町弁天長屋〔2023年4月現在工事中〕。明治期や大正期の建築)を改修し、現在進行形で新しい店が次々にオープンしています。ギャラリー、カフェ、食堂、江戸和竿の店、靴・鞄の修理店などが目白押し。

麻利弁天長屋の「ギャラリー&カフェ二軒堂」は、NHK Eテレの「ふるカフェ系 ハルさんの休日」に「埼玉・川越〜小江戸の粋がわかるカフェ」として登場しました(2021年6月10日放送)。同じ長屋で営業していた「若太郎」が中々な高級店だったのに対し、「二軒堂」のほうは誰でも気楽に入れるお店です。

弁天横丁は雰囲気のある通りなので、遠からず、川越の観光名所のひとつになるでしょう(と書いたのは、2023年)。

 通りの写真を撮っていたら、「置屋が全盛の頃、銭湯帰りの芸者さんたちとよくすれ違った」と、近所のかたが思い出話をしてくださいました。

1 堀越孝一『わがヴィヨン』(小沢書店、1995年)24-25ページ。

2 同書、26ページ。

3 同書、37ページ。

4 同書、38ページ。

5 同書、39ページ。

6 大野端男校注『榎本弥左衛門覚書――近世初期商人の記録』東洋文庫695(平凡社、2001年)9ページ。

7 同書、27ページ。

8 藤村作校注『「井原西鶴集」一』日本古典全書(朝日新聞社、1950年)67ページ。

9 大野端男校注、前掲書、39ページ。

10 同書、71ページ。

11 同書、361ページ。

12 同書、188-89ページ。

12 同書、192ページ。

13 同書、193-94ページ。

14 木下雅博『川越まつりと山車』(川越市文化財保護協会、1985年)13ページ。

15 川越市観光協会ほか監修『川越祭り』「川越氷川神社御祭礼由来記」(言叢社、1986年)170ページ。『埼玉県指定無形民俗文化財「川越氷川祭りの山車行事」調査報告書・本文編』「第五節 川越氷川祭り年表」(川越市教育委員会、2003年)。

16  『川越大事典』「川越まつり」(国書刊行会、1988年)。『埼玉県指定無形民俗文化財「川越氷川祭りの山車行事」調査報告書・本文編』(川越市教育委員会、2003年)80ページおよび「第五節 川越氷川祭り年表」。『同資料編』(川越市教育委員会、2003年)。

17 宮下志朗『エラスムスはブルゴーニュワインがお好き:ルネサンスつもる話』(白水社、1996年)231ページ。