「川越のお気に入り:中央公民館分室」に登場するラフカディオ・ハーン(Patric Lafcadio Hearn 1850-1904)は、『怪談』の作者として著名ですが、彼の来日前の活動について、少し紹介してみたいと思います。

 ハーンは1850年にギリシャで生まれ、その後、アイルランド、イギリス、フランスで過ごしたのち、19歳の時(1869年)にアメリカに渡ります。そして、シンシナティ時代(1869-77)、ニューオーリンズ時代(1877-87)、マルティニーク島時代(1887-89)、フィラデルフィア・ニューヨーク時代(1889-90)を経て、1890年4月8日に来日した時には、39歳になっていました1

 世界のあちこちで暮らした彼ですが、妻のせつの回想に「松江の頃はまだ年も若くなかなか元気でした。西印度のことを思い出してよく私に「西印度を見せて上げたいものだ」と申しました」2「ヘルンの好きなものをくりかえして列べて申しますと(中略)場所では、マルティニークと松江、美保の関、日御崎、それから焼津」3とあるように、紀行文を書くために訪れたマルティニーク島が非常に好きだったようです。

 マルティニークは、カリブ海に浮かぶ西インド諸島南部の小アンティル諸島に属する島で、そのすぐ北方に位置するのが、かつてハーンの父が赴任したドミニカ島。当時、ドミニカ島はイギリスの、マルティニーク島はフランスの植民地でした4

 「川越のお気に入り:中央公民館分室」でふれたとおり、ハーンの長男 一雄は、英語名をLeopold Kajio Hearnと命名されますが、「Leopold」はハーンがマルティニーク島で世話になった公証人の名前から取られています5。また、マルティニークの紀行文は1890年に『Two Years in the French West Indies(仏領西インド諸島の二年間)』

と題して刊行されますが、同書の献辞も件の公証人に捧げられています。

ハーンにとってマルティニークでの体験は、とても貴重なものだったのでしょう。

そのハーンがマルティニークを訪れる前の10年間、暮らしていたのがニューオーリンズ。どちらも、豊穣なクレオール文化を有する土地。それらの土地で、フィールドワーク(現地調査)の達人ハーンがどんな活動をしたかを、音楽を中心に見ていきます。

―ラフカディオ・ハーンの音風景―

◆オペラからアマチュア音楽家まで

『怪談』の作者として著名なラフカディオ・ハーンは、日本に来る前はニューオーリンズで新聞記者をしていた。

Inventing New Orleans(ニューオーリンズを語る)』6というニューオーリンズ時代にハーンが書いた文章を集めた本を読むと、ブードゥー教の信仰をはじめ、土地の料理・民話などについての興味深い記述に満ちている。湿地につきものの「蚊」に関する切実な描写もある7

なかでも「The Daily City Item(デイリー・シティ・アイテム)」という新聞に彼が書いた記事には、けっして上手ではないけれど、なかなか味のある自作と思われる木版画が付されていて8、とても魅力的だ。ルネサンス期に英国で刊行された本に載っている木版画のような、稚拙で、ちょっとユーモラスな感じ。

その木版画付きの記事の中で、特に音楽関係に注目してみると、面白いことが見えてくる。

「French Opera(フレンチ・オペラ)」と題された記事9でハーンは、オペラハウスを上流階級の出入りする「お金が回り、(筆者注:興行主の?)財布が膨らむ」空間としてとらえている。フランスの植民地だったニューオーリンズは、ジャズの誕生した街として有名だが、実はその前はアメリカにおけるオペラのメッカだった。1859年にも、街の中心部にFrench Opera House(フレンチ・オペラ・ハウス)が建設され、ハーンの滞在中にマスネーやグノーのオペラが上演されている。しかし、たった数行の記事とはいえ、彼は記事の中でオペラそのものにはまったくふれていない。

ハーンがオペラに無知だったわけでない。「Organ-grinder(手回しオルガン弾き)」という別の記事10では、最初にヴェルディやグノー、マイヤーベーアなど有名なオペラ作家の名前を列挙している。でも、それに続いて語られるのは、オペラではなく、黒人の辻音楽師による手回しオルガンの演奏だ。それが呼び起こす郷愁の感情が切々と綴られる。「Piano Organ(手回しオルガン)」という別の記事11では、楽器に付属した人形が演奏に連動して動くタイプのオルガンが取り上げられている。その人形たちと旅を続けるオルガン弾きに思いを馳せるハーン。

ニューオーリンズは、ヨーロッパからオペラに代表されるハイソサエティな文化が流れ込んだ街だった。しかし、オペラハウスを一歩出ると、黒人やクレオールの音楽が流れる街でもあった。ニューオーリンズにジャズが誕生したとされるのは20世紀初頭だから、ハーンがいた1877~87年のニューオーリンズにまだジャズは存在しない。しかし、手回しオルガンの音が街角に流れていたし、ハーンはそれを熱心に聴いていた。オペラだけではなく、同じくヨーロッパから伝わった手回しオルガンの調べも。

ハーンは音楽好きである。情報提供者が相次いで亡くなるなどして中断を余儀なくされるが、クレオールの歌を継続的に収集しようとさえしていた12。彼は、地元の有名作家ジョージ・W・ケーブルにインタヴューしただけでなく、お互いが収集したクレオールの歌の交換までしている。ケーブルには、代表作の『グランディシム一族』(邦訳アリ)以外に、クレオールの生活を描いた『Creole Days(クレオール・デイズ)』などの作品があり、音楽も含めたクレオールへの関心をハーンと共有していた。

このハーンとケーブルの交流については、『Lafcadio Hearn’s American days(ラフカディオ・ハーンのアメリカ時代)』(邦訳アリ。注3参照)がふれている。この本の著者Tinker(ティンカー)によれば、ハーンは歌のヘタな人が大嫌いだったという。一方、Tinkerはハーンが音痴 tone deafだったとも書いている。本当かしら? ハーンの書いた「Amateur Musician(アマチュア音楽家)」という記事では13、柄の長いバンジョーを持った男の木版画の下に、「“Everyman his own musician!”(誰でも自分では音楽家のつもりだ)」という一節で始まる詩が続く。その詩から、絵の男が何をうたっているかは不明だが、男は何だか楽しそうだ。木版画からはバンジョーの響きがする。ちょっとハーンの詩、というか()れ歌を訳してみよう。

アマチュア音楽家

誰でも自分では音楽家のつもりだ

調子はずれの音を響かせろ

発声に努め、喉をふり絞れ

ガット弦を掻き鳴らせ

ぎくしゃくした

どぎつい音を

爆弾が炸裂した時のように

大空に渦を巻いて立ち昇らせろ

キャー、荒削りの天才

キイキイバチバチ、震える弦

哀れな翼のない天使

ひょっとして彼女は騒音が好きなのか

おお、いや、絶対に思ってはいけない

天使に涙を流させたからといって

君の不気味な雑音が音楽だなんて

君以外の人々は大声で深く君を呪っている

君を拷問で彼らの繊細な神経を苦しめようとやって来た

悪魔のように呪っている

子どもじみた連中のうちの

悪鬼のように呪っている

 詩のなかの音の描写は、弦に指を叩きつけるようにしてメロディを弾くバンジョー独特の奏法に対する、作者の違和感を示しているとも受け取れる。このアマチュア音楽家が、宴会などにみられる歌のヘタなシロウトを指している、と単純に考えてよいのかどうか。ニューオーリンズの街頭で演奏していた人々はクロウトだし、ヘタだったら、すぐに飯の食い上げだ。

◆ラップの源流にふれた

ハーンがニューオーリンズを離れ、来日までの2年間(1887‐89年)滞在したのは仏領西インド諸島だった。その紀行文は「ハーパーズ・マガジン」に連載され、1890年(ハーン来日の年)に『Two Years in the French West Indies(仏領西インド諸島の二年間)』14として刊行される。

  この本のなかでハーンはマルティニーク島のカーニバルについてふれている。互いに競い合う二組の踊り手たちの集団が歌をうたうのだが、その歌は「十中八九は残酷な当てこすりで、その意味は、その即興的な文句を思いつかせたモトになっている出来ごとを知っていない者には理解できない唄だが、そのハヤシ文句は直ぐに人が憶えて、この島の町々村々で歌いハヤすことになる。」15という。

 「アフリカの音が聞こえてくる」でこの部分を引用した中村とうようは、そのあとに「歌によって人を攻撃する、――これは、よく知られているように、トリニダードのカリプソの大きな特徴だ。少なくとも100年前にハーンが見たときには、マルチニークのカーニバル・ソングでも、同じことをやっていたわけだ。そしてまた歌で人を攻撃するというやり方は、アフリカの伝統なのである。」16と記す。

 この「歌で人を攻撃する」という点については、ラップの源流にふれた大和田俊之の文章が思い出される。「とりわけ重要なのがアフリカ系アメリカ人共同体に受け継がれるダズンズ、シグニファイング、トースティングなどの伝統的な話芸である。たとえば、(プレイング・ザ・)ダズンズとは二人の若い男の子が(しばしば韻を踏みながら)即興で悪口を言い合い、それを数人のギャラリーが見守るというゲームの一種である。」17

 中村とうようは中学生のころ、学校の図書室にあった『小泉八雲全集』の第2巻「仏領西印度の二年間」に惹かれ、「セッセとノートに書き写したものだった。」18と回想している。

 彼が京都の宮津中学校に入学したのは昭和20年4月のこと。ハーンの音風景は、原書刊行の半世紀あまり後に、ひとりの若者の心に届いていた。

1 坂東浩司『詳細年表 ラフカディオ・ハーン伝』(英潮社、1998年)による。

2小泉節子、小泉一雄『小泉八雲 思い出の記 父「八雲」を憶う』恒文社、1976年)10ページ。

3 同前、43-44ページ。

4 ハーンに遅れること40年、ドミニカ島出身の作家ジーン・リース(Jean Rhys  1890-1979)は、終生、英国社会になじめなかった。代表作『Wide Sargasso Sea(サルガッソーの広い海)』(1966)は、シャーロッテ・ブロンテの『ジェイン・エア Jane Eyre』(1847)に登場するロチェスターの妻(西インド諸島出身。気がふれたため、幽閉される)を主人公にしている。

5 坂東浩司、前掲書、456ページ、注一二四。

6 S. Frederick Starr, ed., Inventing New Orleans: Writings of Lafcadio Hearn(Jackson: University Press of Mississippi, 2001)。

7 ハーンは日本でも蚊に悩まされた。気の毒なハーン。岩波文庫の『怪談』(平井呈一訳)には、日本の蚊についてのエッセイが収録されているが、それによると、彼が熱心に蚊の駆除の権威の書いた本を読んでいたことが分かる。

8 E・L・ティンカー著『ラフカディオ・ハーンのアメリカ時代』MINERVA 歴史・文化ライブラリー④、木村勝造訳(東京:ミネルヴァ書店、2004年)、「訳者あとがき」、346ページには次のようにある。「なお、このほかの『アイテム』紙から転載と注記のあるものは、本文の記述からみて、すべてハーンの自筆と信じられる。ただし、挿絵にハーンがサインしたのは、第16章に採録されている(筆者注:実際は同書の第15章、296ページ)“SPANISH MOSS”の絵だけである。」

9 Inventing New Orleans, p.142.

10 Ibid., pp.184-186.

11 Ibid., pp.145-146.

12 ハーンの文通相手に『The New York Tribune(ニューヨーク・トリビューン)』の音楽記者H・E・クレビール Henry Edward Krehbiel(1854-1923)がいた。ふたりは、諸民族の音楽に対する関心を共有していた。クレビールは、アフロ・アメリカンの音楽に関する最初期の研究書『Afro American Folksongs: a study in racial and national music(アフロ・アメリカンの民謡:人種的・国民的音楽の研究』(New York and London: G. Shirmer, 1914)を著している。この本の主な目次を以下に掲げる。C.1  Folksongs in General,  C.2  Songs of the American Slaves, C.3  Religious Character of the Songs,  C.4  Modal Characteristics of the Songs,  C.5  Music Among the Africans,  C.6  Variations from the Major Scale,  C.7 Structural Features of the Poems. Funeral Music,  C.8  Dances of the American Negroes,  C.9  Songs of the Black Creoles,  C.10  Satirical Songs of the Creoles. クレビールは第10章で西インド諸島のクレオールの音楽を取り上げ、ニューオーリンズのそれとの関連性にふれているので、第10章の小見出しも以下に掲げる。A Classfication of Slave Songs.—The Use of Music in Satire. —African Minstrels.—The Carnival in Martinique. —West Indian Pillards. —Old Boscoyo’s Song in New Orleans—Conclusion. —An American School of Compositon. (https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.178969 2021年8月23日アクセス)

 ハーンの著書『Two Years in the French West Indies(仏領西インド諸島の二年間)』の「クレオール音楽」の項に、作譜の協力者としてクレビールの名前も挙がっている。この本の刊行は1890年(注9参照)。クレビールは、1914年刊行の上記の本を書くにあたって、ハーン提供の西インド諸島の音楽に関する情報を利用したと推察される。

13 Edward Laroque Tinker, Lafcadio Hearn’s American days(London: John Lane the Bodley Head, 1925), p.259.

14 Lafcadio Hearn, Two Years in the French West Indies(New York: Harper & Brothers, 1890).

15 「ミュージック・マガジン12月増刊 中村とうよう書きおろし増刊号 アフリカの音が聞こえてくる」(1984年12月31日)39ページ。ハーンの文章の引用は、『小泉八雲全集』第2巻「仏領西印度の二年間」大谷正信訳(東京:第一書房、1931年)から。

16 同誌、39‐40ページ。

17 大和田俊之著『アメリカ音楽史:ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』講談社選書メチエ(東京:講談社、2011年)229-230ページ。

18 「アフリカの音が聞こえてくる」、37ページ。