2023年3月4日(土)、わたしたちの日本語クラスに、おおぞら高校のみなさんが見学にいらっしゃいました。同席された川越市国際文化交流課のかたから、最後に「多文化共生について、どんなふうに考えますか?」という問いかけがありました。
 その時は「難しい問いだな」と思うばかりで、何も浮かんでこなかったのですが、あとでこんなことを考えました。

 「多文化」というと、日本を含めた諸外国の文化という意味に受け取りがちですし、おそらく行政もそのような意味で使っているのだと想像しますが、よく考えてみると、人はひとりひとりが文化的存在であり、同じ日本人でも、自分以外の人はみな異文化的存在に相当するともいえます。
 だとすれば、日本人であれ外国人であれ、他者を異文化的存在として認めた時に初めて、「多文化」という言葉がより切実な意味を帯びてくると言えるでしょう。
 1976年から77年にかけてイタリアで刊行された子ども向け百科事典『わたしと他者たち IO ET GLI ALTRI』(La Ruota Editrice、全10巻)の第1巻は、「赤ん坊がかかわる最初の人たちは、その家族である」という言葉で始まります。そこには、家族を「他者」とする視点が存在しました。
 文化人類学者、言語学者の西江雅之(1937-2015)*も別の形で、成長した赤ん坊の側から、こう語っています。
「物心がついた頃から、自分は異郷にいるのだという感覚が、わたしにはいつも付きまとっている。「わたしにとって、自分の皮膚の外側はすべて異郷だ」と、こんな言葉を機会あるごとに口にしてきた。」(『異郷日記』青土社、2008年、8ページ)

 一方、「共生」に関係して、渡航著『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』が思い浮かびました。小学館ガガガ文庫より、本編18巻が2011年から21年にかけて刊行され、累計で1,000万部以上売れたライトノベルです。
 この作品で主人公は教師に命じられて「奉仕部」というクラブに入部させられます。「奉仕部」のクラブ員は、普段、部室で一人ずつ本を読んでいるくらいで、クラブ活動らしいことは何もしていません。しかし、ひとたび、部に依頼が来ると、それなりに相談しながら事にあたります。
 本書の魅力のひとつは、個性的な部員たちが部室で過ごす無為とも見える時間にあります。彼と彼女らはそれぞれ勝手に時間を過ごしているようですが、実はお互いをじっと観察しています。たとえ無視はしても、誰かを追い出すようなことはありません。そして、さまざまなきっかけから相互理解を深めていきます。
 「共生」にも、このように「ゆったりと」打ち解けていく時間が必要なのだろうなと思います。
 そして、何かのきっかけを生む(かもしれない)日本語クラスのような空間/場も。

*西江雅之には、彼が異文化に触れた体験を綴った素晴らしいエッセイ『増補新版 花のある遠景 東アフリカにて』(青土社、2010年)や、言語や言葉に関する文章を集め、基本語彙や敬語などについての示唆に富む『ことばを追って』(大修館書店、1989年)など、多数の著作があります。