神社仏閣の扁額は能書家が揮毫しているので、お参りの際にじっくり拝見するようにしています。

 川越総鎮守 氷川神社の大鳥居にかかる扁額の社号は、勝海舟(1822-99)が書いたもの1。「氷」の字の左のテンの打ち方をはじめ、とても個性的。

 その勝が開発に協力した活字書体があります。名前は「弘道軒清朝体(こうどうけんせいちょうたい)」。

紙幣寮(財務省印刷局の前身)に勤めていた神崎正誼(かんざきまさとし 1837-91)という人が独立し、1874(明治7)年に勝の後援で金属活字製造所「弘道軒」2を設立します。そして、長年月をかけて字母を完成し、1882(明治15)年に意匠登録したのが「弘道軒清朝体」3。「わが国で書体が意匠登録された初めての例」4だそうです。

 書体見本5を見ると、端正で細身の鋭角的な書体であることが分かります。勝が残した沢山の書と比べてどうでしょう。活字書体なので当然といえば当然ですが、奔放で、ちょっと、とらえどころのない勝のものとは、まったく違います。

しかし、勝自身は、奔放なだけでなく、「清朝体」のような端正な面を持っていたはず。

官軍との衝突を回避した人の書を、総鎮守に行けばいつでも拝見できる、というのは何かよいですね。

勝ゆかりの弘道軒清朝体も、長く生命を保ち、挨拶状などに使われ続けているので、多くのかたが一度は目にしていると思われます。

1 勝は「海舟」と号する前は「氷川」と号していました。

また、明治期以前の1859(安政6)年から68(明治元)年まで、川越ならぬ赤坂氷川神社のすぐ近くに住んでいました。赤坂氷川神社にも、勝が「氷川神社」と記した掛け軸が残されています。

勝は前後あわせて3回(1846-59/1859-68/1872-99)、場所を変えて赤坂に住みました。明治期以後は1872(明治5)年から99(明治32)年まで東京市赤坂区氷川町(現在の東京都港区赤坂六丁目)に住んでおり、談話集『海舟先生 氷川清話』[正]・続・続々(鐵花書院、1897⁻92年)の書名にも、「氷川」が使われています。

ただし、以上のことと、勝が川越氷川神社の扁額に揮毫したこととの関係については不知。

2 「弘道軒」は神崎の号。

3 中国 清朝初期の木版印刷に使われた「軟体楷書体」「清朝体」と呼ばれる楷書体をもとにしています。要するに「清朝体」という名称の「楷書体」が「弘道軒清朝体」ということになります。神崎の依頼を受け、実際に字母の版下を揮毫したのは書家の小室樵山(本名正晴。1842-93)でした。

4 中原雄太郎ほか監修『『印刷雑誌』とその時代――実況・印刷の近代史』(印刷学会出版部、2007年)、高岡重蔵、高岡昌生「第五章 組版、欧文タイポグラフィ」162-163ページ。

5 印刷史研究会編『本と活字の歴史事典』(柏書房、2000年)493ページ掲載。本文に記したとおり弘道軒清朝体の活字が意匠登録されたのは1882(明治15)年ですが、活字の販売はその前から行われていました。